2004 個展 -Don’t wanna know ‘bout evil- / neutron B1 Gallery / 11.23~28
gallery neutron 代表 石橋圭吾
鉄の立体造形と言えば重量感があって鈍く光り、何だか剛直なイメージの作品が多いものだが、谷口の作品の場合はとても軽やかで、鮮やかである。いや、彼の作り出す「モノ」を鉄の立体造形と呼んで終わらせてしまうのは、そもそも間違いだろう。なぜなら彫刻として置かれる場所に光と影によるファンタジックなイメージを映し出し、一方で野外ではまるでキャンプファイヤーの炎のように存在を発揮し、そこに歌声や旋律が聴こえてくるのだから。作品がそこに有ることによって生まれるコミュニケーション。作品が内包することば。この2面性をもって、谷口の作品はとてもユニークに映る。
作品によって生まれるコミュニケーションについては、過去の野外展示や、あるいは室内における展示を見ても容易に想像することができる。鑑賞者はまずその外観に着目し、面白いと声を上げるだろう。しかしその面白さは多様である。ある者はマリリン・モンローのセクシー・ポーズを見て喜び、ある者は鉄という固い素材を使ってこれほどまでに文字を浮き上がらせる手法と技術に驚くかもしれない。そしてそのことばは(多くは英語なのだが)解読できても・できなくても、それぞれに連想と空想のチャンスを与えてくれる。もちろん、ここで重要なのは谷口が何を書いているか、何が刻まれているか、よりも鑑賞者によるイメージを膨らます作業であることは、言うまでもない。谷口はこれらの作品一つ一つに、実は既存の楽曲の詩を引用しているのだが、そのタネ明かしをしようとはしない。その詩(歌)が彼にとって思い入れがあり、重要なものであることは間違い無いにしても、それをもってして彼の表現の代弁者たらしめんとするのでは無いのであろう。それは歌手がそうすればいいことであり、谷口は単に音楽からインスピレーションを受けている、という言い方では物足りない。もっと奥深く、彼は詩や「ことば」の力を信じている。
「ことば」という、実体がなく曖昧なもの。しかしそれは時に人を勇気づけ、喜ばせ、悲しませる。それは受話器によってもたらされ、手紙やメールによって運ばれるが、「ことば」を受け取った相手はその本質に触れた時、記憶の中にはその「ことば」が刻まれたとして、文字そのものは形としてどこまで残されるだろうか。あるいは音楽や詩の朗読においても、その空間における「ことば」は皆が共有できるものであるのに、誰も「ことば」を手に掴み、触ることは出来ない。「ことば」は無限にそこに存在し、瞬時に消滅する。しかし人間は「ことば」の力を信じている。あるいは実体が無いからこそ、人間は「ことば」を信じることができるのかもしれない。まるでそれは「神」という概念がそうであるように・・・。信仰や崇拝の形態やターゲットが微妙に違っても、人が絶対的な拠り所を求めて何かを信仰する行為、本質は同質である。「ことば」は言語によって置き換えられ、世界各地で異なるシステムが流通している。土着の「ことば」や信仰を無理矢理に統合しようとすれば、人々は激しく抵抗し、自らの存在意義をも賭けて戦うだろう。それほどの力を持つ「ことば」の魔力が、果たして谷口の作品においては恐ろしく静かに、それでいて神々しいまでに実体を伴って存在している。便宜上、彼は英語表記を用いてはいるが、それこそは我々の目に映るための仮の姿でしか無い。「ことば」を発する時、音声は信号となって空気を震わせ、その波を耳のセンサーが感知することによって受信する。つまり音になった「ことば」は振動である。一方で、読み書きされる「ことば」は彫刻である。そこに文字が一つあることにより、世界が生まれ、ストーリーが生まれる。お気付きかもしれないが、谷口の作品の根幹を成す部分は、「ことば」の本質でもあるのだ。だから、彼が取り組んでいるのは「鉄の立体造形」ではなく「ことばの実体化」であることが、読み解けるのである。そして実体化された「ことば」が織り成すさらなるフォルムは旋律や韻律、さらにはストーリーまでをも作り出す。壁に映し出される「ことば」の影は、まさしくコンサートホールに響き渡る歌声で無くて、一体なんなのだと言うのだろう!私たちの発する「ことば」は、別の誰かの心の中ではトンガって突き刺さり、あるいは重々しく存在し得る。実体化する前に、もっと「ことば」を大事にしたいものである。